それぞれの場所


 イエス・キリストの生誕の地でありながら、異教徒の人々によって営まれるコミューンの中で開かれた西暦1984年目のボランティアだけのクリスマス・ディナーは、アメリカ人のアンが腕をふるって作ったケーキと皆で持ち寄ったビール。それに、週末のシャバット・ディナーの時に取っておいたワインにキッチンを預かるダニエルが特別に準備しておいてくれた七面鳥の肉という、決してゴージャスではないにしても心温まるテーブルを皆で囲むことができた。
 勿論隼介は、ボランティアの中では唯一の非キリスト教徒であり無宗教派の人間だったが、本人は、そんなことをまったく気にする様子もなく、誘われるがままに当然のよな顔をして、このディナーのテーブルについていた。
 ただ、アジア人と一緒にクリスマスを祝ったことのないスティーブンなどは、「シュン。日本にはキリスト教徒が少ないって聞いたけど、いつあんたは洗礼を受けたんだ?」と、わかっているのにからかい半分で聞いてきたので、もうすっかりスティーブンの性格を知り尽くしてしまった隼介は、「洗礼だって・・・?いいかよく聞けスティーブン。この下のヨルダン川で水浴びをすれば洗礼になるのなら、俺は毎日同じ水を飲んでるじゃないか。体の内部から浄化してるんだから、これほど合理的な洗礼はないだろう。違うか?」と、隼介の方が完全に揚げ足をとってしまい、スティーブンが何も言えなくなってしまうと、周りのボランティア達は、それを聞いて大笑いをして一挙に場が和んだのだった。
 しかし、食事が始まって暫くすると、隼介は、ダイニングの一角だけに設けられた、ボランティアだけのその特別なテーブルがある一角と、同じ時間に食事に上がってくるメンバー達がいる、ごく平凡ないつもの夕食風景の間に、何かしら寒々とした空気が流れているのを感じ取っていた。
 気軽に声をかけてくる一部の若い連中や子供達を除けば、殆んどのメンバー達は、ボランティアのしていることに興味を示さないどころか、顔も向けようとしなかった。
 それは、はっきりと自分達余所者がしていることを、拒絶する態度にも取れた。
 「ポール。何か俺達のしていることは、ここの人達には興味も関心もないことのようだな」
 「えッ?あーァ、ここの連中のことか?気にしないほうがいいよ。ここの人達も、あんなに頑なに節操を通さないで、俺達と一緒にエンジョイしてくれるような人達だったら、きっとどこの国でも上手くやっていけるのにな。・・・まァ、仕方がないよ、自分達民族のポリシーを曲げてしまえば、大きな力に吸収されてしまうという危惧が、いつも背中合わせにあったんだろうからな」

 「だけどなポール、日本人の俺とは大違いだと思うよ。元来日本人は、無節操に何でも簡単に乗せられて取り込んでしまうところがあってね。キリスト教なんて全く関係ない人間までが、クリスマスだっていって浮かれるんだ。毎年毎年そうすることが当然のようにね。・・・まァ、元を正せば、誰かがそういう風に植えつけているんだけどね。・・・だから、それと同じでね、今日の俺にしても、勿論キリスト教徒でもないのに、当然のような顔をしてここに座っているだろ。君らには今日は、キリストという神の生まれた大切な日だけど。そうだなァ・・・?俺にはキリストという人物がいたと仮定した上での誕生会かな・・・?ハハハ・・・。それに比べれば、余程彼らの方が信念に長けている気がする。そういう風には思えないかい?」
 ポールは、暫くの間難しい顔をしてメンバー達を睨んでいたが、その内「フッ」と間を外すように息を吐いて微笑むと、「まァ、いいんじゃないか。今更難しいことは。要は、お互いがどれだけ親密に、より平和的に付き合えるかということの方が大事だからな。そう言った意味じゃシュン、君の方がよほど俺達には相応しい相手だということに間違いはないよ。それに、宗教は思想や政治と同じで、いたる所で争いを生む原因にもなってるくらいだから、もしかしたら、そんなものはないにこしたことはないのかもしれない。そう考えたらシュンのように、今日はただの誕生パーティーとして楽しめばいいってことだ」
 「ハハハ・・・、ポール。君のそういう固定観念の希薄なところは、非常に好きだね。それに、その意見には俺も賛成だな。俺のように、社会的地位もなく無宗教の人間でも、気持の持ちようさえ間違わなければ、こんなに問題も無く平和な気持で生きられてんだからな。・・・さァ、もうこれで難しい話は止めよう。とにかく君らの神様に乾杯だ!メリー・クリスマス。チェアーズ」
 隼介は、ポールに向かってグラスを掲げると、グラスに入ったワインを一挙に飲み干した。
 「ところでポール。先から気になってたんだけど、テーブルの向こうの端にいつの間にか来て座っている子がいるよな。あの、テリーと話してる子。あの子って確か、例のアルゼンチンから来たお嬢様の内の一人だったよなァ?」
 「あーァ、ジェシカだね。あの子、いつの間に来て座り込んだんだ?確か彼女は、一人だけ国へ帰らずにここに残ったようだね。先週からキッチンを手伝ってて、2、3日前に一度話したけど、結構さばけた感じのいい子だよ。ジェシカ、悪いがちょっとこっちに来ないか」
 ポールは、大きな声でジェシカを呼ぶと、立って手招きをした。
 ジェシカは、急に大きな声で名前を呼ばれて、ちらっと隼介達の方を見たが、それでも暫くはテリーから離れようとはしなかった。しかし、テリーがポールの方を指差し二言三言何か言うと、渋々だが納得したように席を立ち、隼介達の方にやってきた。

 「ハーイ、ポール。メリー・クリスマス。それにシュンもね。・・・で、何か用?」
 「あれ?君は、よく俺の名前を知ってるなァ。誰がこんなに可愛いいお嬢さんに、勝手に俺の名前を教えたんだ?・・・それに、まずは始めましてだね。よかったら座らないか?」
 隼介とポールは、少し横にずれてやって、後ろのテーブルからイスをひとつ引っ張りこんでやった。
 「せっかくテリーと話してるのに呼んでしまって、気を悪くしたかい・・・?いい機会だから、シュンを紹介しておこうと思ってね」
 ジェシカは、「それだけ」というような顔をしたが、黙って腰を下ろした。
 ジェシカのつけた香水の匂いが、隼介の鼻をくすぐったが、それは紛れもなく大人の匂いだった。
 「私はジェシカ。2週間ほど前に、アルゼンチンから来たの。シュンも知ってるでしょ?・・・そうそう、あなたはどうも目立つ存在だから、アルゼンチンから来た仲間も、あのアジア人は誰って、最初に聞いてたわ。但し、南米には日系人が多いから、そんなに珍しくもないけど、この国で日本人に会ったことの方が意外だもの・・・」
 「そうかい、そりゃあどうも。どうも俺は、ここにいるハンサムな連中よりも人気があるようだな」
 「さァ、それはどうかな?少なくても私には、あなたのようにオジサンじゃなく、テリーのようにハンサムで若い方に興味があるんだけどな・・・」
 ジェシカはそう言って、気になるのか「チラッ」とテリーの方を見た。
 17、8歳にしては、髪にパーマをかけ、爪にマニュキアもして、こんな場所でする必要があるのかアイシャドーも少し濃い目だったが、目の下にはソバカスが沢山あって、やはりどこか子供っぽさがまだ残っている感じだった。
 「ところで、君はどうして一人だけこのキブツに残っているんだい?まだ学校が残ってるんじゃないのか?」
 「学校?学校は2、3ヶ月休むことにしたの。それくらいの遅れは、すぐに取り返す自信があるの。ただ、問題は親の方だったんだけど、それも何とかしたわ」
 ジェシカの話だと、彼女の家庭は予想通り、アルゼンチンでも相当裕福な家で、父親は銀行の役職にあり、「もうすぐ頭取にでもなるんじゃない」と、本人が言うように、アルゼンチンでも名門のユダヤの家系に間違いないようだった。

 「でも、私も少し自由が欲しかったの。国に帰れば、これまでと同じつまらない毎日の繰り返しでしょ。今回イスラエルに来ることには、両親の進めもあったんだし、一人になって息抜きをするには良いチャンスだったの」
 「ヘー、そんなもんかねェ。ジャシカの生活なんて俺達には想像もできないけど、いずれにしても君は、俺達にはわからない高級な家庭のじゃじゃ馬娘なんだろうな。なァ、ポール・・・」
 向こう気の強そうなジェシカは、頬を膨らませて「プイッ」とそっぽを向いたが、ポールは、肩をすぼめて両手を開くと、言葉には出さず、「さァ、どうだか?」という、とぼけた顔をして隼介を見た。
 「まァ、そんなことはここじゃ関係ないか・・・。ところで君は、やけにクリスマスに抵抗がなさそうだけど、まさかキリスト教徒じゃないんだろう?」
 「いいえ。・・・というよりも、まだはっきり態度を決めてない口で、ユダヤ教徒でもないのよ。実は我が家は、父はユダヤ人だけど、母はスペイン系なの。だからクリスマス・パーティーは、友達を呼んで毎年盛大に開いてるわ。・・・でも、イスラエルに来てまでクリスマスが祝えるなんて、ちょっと嬉しかったな・・・」
 「ヘーェ、そうなんだ。俺達にはユダヤ人の家庭のことは、いまいちよくわからない点が多いけど、イスラエル以外に住むユダヤ人の家庭も様々なんだな」
 「そんなこと当たり前でしょ、シュン。アメリカを見れば一目瞭然じゃない。アメリカの有名なお金持ちのユダヤ人にしても、沢山いるユダヤ系の映画俳優にしても、皆クリスマスを楽しんでるのをテレビで見るでしょ。イスラエル以外の国で暮らすユダヤ教徒って、イスラエルの人は、自分達と区別して考えてるとこがあってね。海外にいる白人系のユダヤ人って、アシュケナジーって呼ばれるんだけど、この国にいるような黒髪、黒目をしたセル系と言われるユダヤ人は、スファラディーと呼ばれているの。勿論私もユダヤ教徒になればアシュケナジーになるんだけど、イスラエル以外の国に住むユダヤ人って、殆んどがアシュケナジーでしょ。アシュケナジーって純血に拘らないとこがあって、アメリカのユダヤ人なんて、半数が非ユダヤ人と結婚してるのよ。だから、この国のスファラディーの人達が、自分達とは違う人種って見方をしてるのもわかるんだけど・・・。とにかくそういう訳だから、少なくてもアシュケナジーのユダヤ人の多くは、クリスマスというものを、宗教的な意味合いでは考えてなくて、そうねェ?行事みたいなものとして捕らえてるのかな?・・・わかるかなァ、私の言って ること・・・?」
 「ハハハ・・・。わかるよジェシカ。先までポールと同じようなことを話していたんだ。日本人もキリスト教徒じゃないのにクリスマスを祝ってるってね。いまここにいる俺自身だって、キリスト教徒でもなんでもないのに、こうして一緒にエンジョイしてるだろ」
 「そうか、シュンもキリスト教徒じゃなくてブッディストだったわね」
 「ジェシカ、それはノーだ。残念ながら違っている。俺は神様は信じるけど、何物にもぶら下がる気は今のところない人間でね。仮にもし俺が宗教を必要とすることがあるなら、その時は人生に失望した時か、或いは俺の意思に関係なく、遺影が何かの宗教の祭壇に飾られた時だろうな・・・?」



 周りが醒めたムードの中で開かれたクリスマスのディナー・パーティーだったので、やはりボランティア達も羽目が外せないのか、シャバットの日の酒盛りに比べれば、盛り上がりには欠けた。
 毎週末のシャバット・ディナーの時には、メンバー達も多少はワインを口にしたりして、ある程度はリラックスしたムードが漂うので、ボランティア達も調子に乗って、残ったワインをかき集めて盛り上がるのだが、9時を回って、キッチンの当番がいつものようにダイニングを片付け始めると、ボランティア達もそれ以上そこに居座る訳にはいかず、仕方なしに全員で後片付けを済ますと、残ったアルコールのビンを抱えて、ボランティア達は地下シェルターに下りて行った。
 エル・ロームの地下核シェルターは、一階玄関横の階段を下りていくと、まず潜水艦内部の仕切り壁に使われているような、開けっ放しになっている大きな高気密のドアがあり、その内部に居住用の30畳ほどの部屋が二つ準備されている。勿論非常時のための食糧庫や空調のための機械室、トイレ、シャワー室なども揃っていて、メンバー全員とまではいかないだろうが、その半数までだったら長期滞在が可能な代物に思えた。
 しかし、ゴラン高原がイスラエルによって占領されてからすでに18年経っているうえに、核戦争に対する不安が薄らいでいるせいか、内部に二つある居住用の部屋は、すでにどちらもシェルターという雰囲気ではなく、ここで暮らす若い連中に都合よく利用されている部屋― という状況だった。
 実際、気密ドアを入って最初の部屋には、ウエート・トレーニング用の簡単な道具や卓球台が置いてあり、出入りが自由なので、何もすることがないと、隼介もここに来て体を動かしたり、シャーイ達が付いて来ると、一緒にカラテの真似事をしたりして過ごすことはよくあった。
 そして、そのさらに奥にある部屋が、ここで暮らす若い連中がディスコとして使っている部屋で、電気を点けて中に入ると、部屋の奥の隅にある簡単な手作りのカウンターの上に、スピーカーを2個繋いだだけの安物のオーデオセットがあり、その周りの壁際に、古い丸イスとテーブルが3組ほど置いてあった。初めて連れられてここに入った時には、「ここがディスコか」と、呆れるほど薄汚れた何もない部屋だったが、ただ天井には、誰がどこから仕入れて来たのか、ミラー・ボールがちゃんと吊るしてあり、自分達が作ったディスコの雰囲気を、少しでも盛り上げようとする若い連中の精一杯の努力は感じ取れた。
 残念ながら隼介は、どちらかというと人前でパフォーマンスを見せることが苦手な男で、おまけにこの場所の常連であるスティーブンやジャネット達ブリティッシュが、いつもイギリスのハード・ロックばかりを好んで流すので、毎週末のシャバット・ディナーの後でも、ここに来ることは殆んどなかったが、この夜だけは、隼介も中途半端な酔い方が気に入らなくて、もう少し飲み足す目的でシェルターに付き合ったのだった。

 部屋に入るとまずスティーブンやテリーは、いつものことなんだろう、部屋の奥にあるカウンターを照らす赤い色の小さなスポット・ライトをまず点け、部屋の電気を落とし、ミラー・ボールのスイッチを入れた。
 すると、ぱっとしなかった部屋は、もうそれだけでりっぱなディスコの雰囲気になったが、さらにカウンターの周りの壁に何枚も張ってあるイギリスの有名なロック・バンドのポスターが、くるくる回るミラー・ボールの光で照らし出されると、ポスター自体が刺激的なスクリーンとなって、一層ディスコの雰囲気は盛り上がった。
 隼介は、すぐに始まったエレキ・ギターの甲高いサウンドに肩をすぼめながら、誰も座っていない壁際のテーブルに行って丸イスに腰を下ろすと、さっそく持ってきたビールの栓を抜いてラッパ飲みを始めた。
 イギリスの女の子達も、北米から来ているアンやカーンも、それに一緒に下りて来たアルゼンチン産のジェシカも、すでにハードな音に合わせて楽しそうに体を躍動させていた。
 数少ない手持ちの服の中で一番良い物を着て、英語のビートに載って踊る彼女達を見ていると、今自分が居るのがイスラエルのゴラン高原だといく気が隼介には不思議としなかった。むしろロンドンの下町のディスコにでもいるような感じがした。
 そして、その内にここの10代のメンバーのラルフやヨエル達、それにケニーもキャティーを伴って姿を見せると、狭い室内は一杯になり、いっそうヒートアップしたムードになっていった。
 ただ、そうなってくると、部屋の隅の方でただビールを口にしているだけの隼介は、何か自分が浮いた存在のように感じられてしまい、逆に居づらい気分になっていた。
 チェ、無骨物のキーウィーでも誘えばよかったな。似たもの同士で、多少は腰を据えて飲めただろうに・・・。これじゃァさすがに居心地が悪いぜ― 隼介は、手持ちの二本目のビールを開けてしまうと、もうそれ以上そこに座っている気は失せていた。
 一人だけ先に抜けるのはバツが悪くて、貧乏揺すりをしながらそれでも暫くは我慢をして座っていた隼介だったが、踏ん切りがついたように立ち上がると、ポールに「先に帰って寝るから」と告げて、空瓶を持って出口に向かった。
 すると、隼介と同い年のアンが、ドアのところで隼介を捕まえて、珍しく酔っ払って呂律の回らない口調で「踊ろうよ」と誘ってくれたが、隼介は、「情けない話だけど、俺は山の中で鳥や虫の声を聞いて育った人間でね。こんなロンドンの下町の壊れたようなうるさい音には、体が付いていってくれないんだ。それよりもよかったら、一緒に来て静かな子守唄を歌ってくれるかい?」と、隼介が真顔で頼むものだから、アンはそれを聞いてケタケタと笑いだし、「わかったわ、その内ね。メリー・クリスマス」と言って、近寄ってきて頬にキスをしてくれた。
 隼介は、それが相当嬉しかったかのように、アンの手を取って甲にキスを返すと、ニッコリ笑って「おやすみ、アン。メリー・クリスマス」と答え、ドアの枠に手を掛け踵を返したが、ちょうど振り向きざま、部屋に入ろうとした女性がいて、その人に抱きつくような格好で強くぶつかった。
 「あッ、ごめん・・・」
 隼介は、とっさに自分の方から謝ると、退いて、うずくまった相手に手を差し伸べたが、ぶつかった額を痛そうに撫でながら、隼介の顔を見上げて睨んでいるのは、意外にもファニーだった。
 「あなたとぶつかるのはこれで二回目ね。シュンと私は、よほどタイミングが合うのかしら?それとも単に、あなたに注意力がないだけなのかしら?」
 隼介に起こされながらファニーはそう言うと、一緒に来ていたグーリッドを見て笑い、それから隼介の顔を上目遣いに睨んだ。

 隼介は、実はあのトーチカの件以来、ファニーとまともに顔を合わせていなかった。
 本当は会って、もう一度きちんと謝らなければならないと思ってはいたのだが、色んなことが隼介の気持の中を駆け巡ってしまい、どうも素直に謝りに行けないでいた。
 「シュンはもう帰るの?つまんないわね・・・」
 「あァ、そのつもりだけど、君が来るとは思わなかったよ・・・。どうも俺は、こういったうるさい音楽は苦手でね」
 ファニーは、ちょっとガッカリしたような顔をして「そう、仕方がないわね。じゃァ、おやすみ」と言って、中に入ろうとしたが、ちょうどその時、ハード・ロックの曲が終わり、珍しくテリーがスロー・テンポの曲を流し出したので、そのままそこで立ち止まった。
 中に居る連中の半数も、それで行き場に困ったように壁際に引いたが、5、6組のペアーはすぐにできて、チーク・ダンスを始めた。
 「シュン。これだったらシュンもいけるんじゃないの?」
 ファニーは、嬉々とした顔で振り返ってそう言うと、隼介の腕を取って部屋に引き込み、腰に手を回し、自分から体を寄せてきた。
 隼介は、戸惑ったようにグーリッドの方を見たが、グーリッドは意味ありげに笑うと、部屋の奥にいる、他の若いメンバー達の輪の中に入っていった。
 隼介とファニーは、それから暫く何も喋らず、ただスロー・テンポの曲に身を委ねていた。
 シャワーを浴びてきたのだろう、ファニーの髪の香りが隼介には心地良かった。
 「ファニー。この前は悪かったな。俺の軽率な行動で、すっかり君に迷惑をかけてしまって・・・」
 「あァ、あれ。もう忘れましょ。私には何のお咎めもなかったし、済んだことでしょ」
 「そう・・・」
 隼介の腰に回しているファニーの腕に、少し力が加わったのを感じると、隼介もそれに応えるように、ファニーの体を抱く腕に力をこめた。



 そして、それから1週間して、今度は日本を出て4回目の正月を、隼介はイスラエルで迎えることになった。
 しかし、イスラエルとユダヤのことをじゅうぶんに理解していなかった隼介は、西暦の1月1日が、イスラエルでは新年に当たらないということを知らず、年末になってがっかりした気分を味わったのだった。
 実はユダヤの新年は、昔から太陰暦のユダヤ暦によって、9月から10月の新月の日に始まると決められている。
 太陰暦のために毎年1年のスタートの日は変わってしまうのだが、イスラエルの人達は、このユダヤ暦の新年を、1年のスタートとして盛大に祝うことになっている。
 そんな訳だから、西暦の大晦日を迎えても、ボランティアだけのクリスマスと同じで、盛り上がるのはボランティア達と一部の頭の柔らかいメンバーだけで、おまけに12月31日も1月1日も、暦上は平日扱いとなっているため、イスラエルには年末年始という雰囲気はなく、隼介もせっかくの大晦日なのに、味気ない気分になってしまっていた。
 ボランティア達は、大晦日、夕食が終わると、クリスマスの夜と同じように、各自が手持ちのアルコール類を持ち寄ってダイニングで盛り上がり、12時前になって1階のテレビ室に下りていった。
 この夜のテレビは、イスラエルのテレビ局も含めて、世界中の大晦日の様子を中継で流していた。すでに新年を迎えた東京やシドニー。これから迎えようとするロンドンやパリ、ニューヨーク。そういった街と、海外から移住してきたユダヤ人や外国人が多く暮らすテルアビブやエルサレムなどの街角や広場で、西暦のニューイヤーを祝う人の盛り上がりをテレビは交互に映し出していたが、それを見ようと集まった人で、すぐにテレビ室の中は一杯になった。
 そして、12時前になりカウント・ダウンが始まると、全員が立って肩を組み、テレビのカウント・ダウンに声を合わせた。
 「3、2、1・・・。ハッピー・ニューイヤー」
 どこで仕入れてきたのかクラッカーが2、3発弾け、「ハッピー・ニューイヤー」の叫び声があちこちから上がった。
 
 隼介は、一挙に盛り上がり騒然となった部屋の中で、誰彼構わず手当たり次第に抱きつき、肩を叩きあい、女性にはキスをして部屋中を歩き回った。
 テレビで映し出されるテルアビブやエルサレムの広場や街角も、新年を祝う盛り上がりは相当なもので、やはり花火だけはこの国でも打ち上げられているようだった。
 「ハッピー・ニューイヤー、シューン」
 奇声と新年の挨拶を交わす言葉がごちゃまぜになって行き交う部屋で、後ろから誰かが声をかけてきて抱きついてきたのは、隼介がやっと皆と一通り挨拶を交わした後だった。
 隼介は、その声に反射的に振り返り、相手を認めると、両手を一杯に広げて抱きしめ直した。
 「ハッピー・ニューイヤー、ファニー」
 隼介は、両手をファニーの頬に当てるとゆっくり引き寄せ、唇に軽くキスをした。
 「今年が君にとって良い年であればいいね。君が持つ沢山の夢が叶うことを願ってるよ」
 隼介は、満面の笑みを浮かべてファニーの顔を覗き込んだが、ファニーは小さく頷くと隼介の背中に手を回し、もう一度自分の方から唇を重ねてきた。
 「ハッピー・ニューイヤー・・・」
 一瞬隼介の中で時間が止まり、周りのざわめきが聞こえなくなった。
 えッ・・・?― 挨拶を超えたキスに、隼介は戸惑ったが、その内に目を閉じ、ファニーを強く抱きしめていた。



 年が明け、西暦1985年に入っても、なかなか雪はエル・ロームまで降りてこようとはしなかったが、1月の半ば過ぎにある「砂漠を緑に変える」という意味を持つ植樹祭の祝日を前にして、温度が急激に下がり、雪はやっとエル・ロームの周りを白く覆った。
 一晩で降り積もった雪は15センチばかりだったが、この冬最初の雪を、子供達も、それからキブツで飼っているセントバーナード犬やシェパード犬も喜び、隼介は雪だるまを作り、子供達とは雪合戦をして楽しんだ。
 しかし、雪が残ったのもわずか2日ばかりで、それから暫くは温度も上がり、穏やかな日が続くようになった。
 隼介は天気の変動の大きさと速さに面食らったが、よく考えれば、ゴラン高原北部で雪が降っている時に、地中海に面した80キロ西のハイファの気温は15、6度あり、400キロ少し南のエイラットでは、気温は20度を超えているのだから、たったそれだけの距離でそれだけの変化があることの方が、隼介には不思議に思えた。
 イスラエルの冬は短い雨季と呼ばれ、僅か3カ月ばかりの雨量が1年を左右するが、隼介は、その冬の始まりにこのキブツに入って、もうすぐ2ヶ月が経とうとしていた。
 ヨーロッパを出る時、遅くとも3月の半ばには帰って来て、再び働き始めるという予定でいた隼介は、イスラエル滞在を3ヶ月と限定していたが、今まで曲げたことのないその強い意志が、残り1月となり、少し揺らぎ始めていた。
 勿論その最大の原因は、あの大晦日の夜以来、ファニーとの距離がぐっと狭まったことにあるのだから、隼介自身も複雑な心境だった。
 そんな、隼介にしてみれば半分楽しくて、半分は少し憂鬱な気分になりかけていた1月の終わり、いつもはあまり出しゃばらないマイケルが、エル・ロームから2キロばかり北にある、ドルーズ派の村、ブクァタに、「気分転換に飲みに行こう」と、週末に持ちかけてきた。
 ゴラン高原には、イスラエルがゴラン高原を占領した後も住み続けるシリア人の村が5つある。
 その内の4つは、ドルーズ人が住むドルーズ派の村で、残りの1つがチェルケスト人が住むシーア派の村となっている。
 エル・ロームには、毎日必要とする野菜類がこのドルーズ人の村からも供給されていて、キッチンで働いていると、野菜を運んできたドルーズ人と会って話すこともあるが、多分マイケルも、そうしてドルーズ人のオヤジとでも知り合いになったのだろう。
 
 隼介達は、週末の土曜日の夕方。イスラエル人が安息日で働かない日の夕方に、男6人で連れ立って出かけて行った。
 勿論ドルーズ人の村には安息日はない。
 都合上彼らも、週末をイスラエルのものと合わせてはいるようだが、ユダヤ人が安息日として働かない土曜日も、彼らにとっては特別な日ではないので、隼介達が行こうとしている居酒屋らしきものも開いているらしかった。
 イギリス人の3人と、ポールとカナダ人のジェミー、それに隼介の6人は、7時に夕食を終えると、すっかり暗くなった道を懐中電灯も持たずに歩いて出かけて行った。
 たった2キロの距離しかないので、歩くことに抵抗はなかったが、もし運よくトラックでも通りかかれば、止めて載せてもらう腹積もりはあった。
 ただ、女性を連れて行けなかったのは、安全上の問題からで、本当なら丸腰の外国人が夜間にのこのこ出歩けるような場所ではないので、それはジャネットやトレーシー達には納得してもらうしかなかった。
 この夜は、空もよく晴れ渡っていて、静まり返った何の明かりもない道路を歩きながら見上げると、満天の星がすぐそこにあるような錯覚さえした。
 6人は、最初のうちは雑談をしてのんびり歩いていたが、その内にキブツの明かりが全く見えなくなってしまうと、さすがに緊張を覚えたのか徐々に無口になっていった。
 そして、暫く歩いて、ブクァタ村の家の薄暗い明かりが近づくと、安心したのかスティーブンがさっそく口を開いた。
 「シュン。あんた先月、ビンヤードの側のトーチカに入って、イスラエル兵に注意されたんだってな」
 突然スティーブンが言い出したのは、ポール以外誰にも話していないことだったので、隼介は驚いたように立ち止まった。
 「あァ、そうだよ・・・。いった誰に聞いたんだ?ポール、もしかしてお前喋ったのか?」
 隼介は、暗くてポールの表情がわからないので、少し強い口調でポールに言った。

 「おいおい、ポールに怒るなよ。シュンが秘密にするほどのことじゃないんだから。この前ビンヤードでポールと一緒だった時に、あのトーチカのことが話しにでてね。実は、俺たちもあそこで同じことしてんだ・・・。大体だ、あんなところに何もせずにあんなものがあれば、誰だって入ってみたくなるのは当然だよな。俺達もここに来て間もない頃だったんで、何も気にせず入ったら、やっぱりヘリが飛んできた」
 「で、怒られたか?」
 隼介は、ぶっきらぼうに聞いた。
 「ジープに乗った連中が、何かぶつくさ言ってたけどな。俺たちがキブツに来てるボランティアだってことは、上の方から監視されていてわかってたようだから、文句を言うだけ言ったら帰っていったよ。・・・だけど、シュンはファニーと一緒だったんだろ?」
 隼介は、スティーブンが、ファニーと一緒だったことまで知っていたので、余計に不愉快になった。
 「シュン。言っておくけど、ポールはファニーの名前なんて出してないよ。二人だったって言うからピンときたんだ。・・・まァ、誰と行こうと勝手だけど、それよりも、悪いことは言わないから、ユダヤ女だけはやめといた方がいい。皆そう思ってる。勿論遊びだったら誰も気にはかけないけどな・・・」
 「あァ、忠告には感謝する。・・・だけど、出来たらほっといて欲しいな。お前にとやかく言われる筋合いはないからな」
 隼介は、吐き捨てるようにそう言うと、スティーブンを睨んだが、相手の顔もじゅうぶん見えない暗さでは、説得力はなかった。
 「シュン、知ってるか?英語の俗語でファニーっていったら、女のあそこのことを言うんだ。おもしろいユダヤの名前だと思わないか?」
 「スティーブン、いい加減にしろよな。いくらなんでも、それは彼女に対して失礼な言い方だぞ!」
 スティーブンが調子にのって、さらにつまらない話まで持ち出すものだから、ポールが堪り兼ねたようにスティーブンを怒鳴ると、周りの連中もそれに同調してスティーブンを攻めだしたので、さすがにスティーブンも閉口するしかなく、それからスティーブンは村に着くまで、ふてくされたような顔をして一番後ろをついて歩いた。

 隼介は、キブツを出てエル・ロームから北のエリアにある集落を訪ねたことはなく、おまけに隼介達が村の入り口に着いた時には、すでにすっかり陽が落ちてしまっていたので、ブクァタ村の規模を見て取ることはできなかったが、集落は幹線道路の東側に纏まってあり、マイケルの話だと結構大きな村だということだった。
 ただ、エル・ロームの敷地内の建物は、どれもじゅうぶんに明るく、夜でも歩き易いように街路灯も整備されているが、それに比べると、この村の各家庭の明かりは異常に暗く、その上に街路灯も殆んどないようなので、異常に静まり返っていることと相まって、その村が隼介には不気味に思えた。
 隼介達は、幹線道路を折れると、マイケルの先導で村の中心に向かって入っていった。
 まだ8時前だというのに、通りを歩く人の姿は何故か皆無で、まるでここに住む村人全員が、家の中で息を殺して自分達を見ているような気さえした。
 「マイケル。いつもこの村はこんなに静かで暗いのか?まだ寝る時間じゃないのに、誰も出歩いてないじゃないか」
 村に入ってからというもの、誰一人として人の姿を見かけないことが、ポールにも気になったのか、囁くような声でそう尋ねた。
 「あァ、心配しなくても大丈夫だよ。ここに住む人達は、イスラエル人ほど恵まれてないから、極力節約した生活をするしかないんだ。俺も今日が2回目で、あまりこの村のことは詳しく知らないけど、一応ここから野菜を持ってくるオヤジの話でも、俺達外国人が訪ねることには何も心配はないらしいんでね。・・・だけど、ちょっとまてよ、どの家だったけなァ。確かこの道を入って300メートルばかり行くと、左側に雑貨屋があったんだけどなァ・・・?」
 「雑貨屋だって・・・?そんなとこで飲むのかよ。・・・だけどマイケル、もうどこも戸を閉めてるから、もうやってないんじゃないのか?」
 「いや、それは大丈夫だよ。前回行った時にもこんな時間で入れてくれたからね。それに話好きのオヤジだから心配ない」
 6人は、300メーター入ったと思える場所まで来ると、一軒一軒それらしい家がないか見て歩いた。
 すると、そこからもう少し行ったところに北に伸びる通りがあり、その角から3軒手前の家の軒先に、古ぼけたそれらしい看板が掛かっている家があった。
 マイケルは隼介達を呼ぶと、「ここだ」と言って、その家の戸を叩いた。

 「ハロー、こんばんわ。ハロー・・・」
 マイケルは、少し遠慮した声で呼びかけていたが、暫くして、中の方でごそごそ人が動く気配がすると、外を窺うようにしてゆっくり木戸が開いた。
 出てきたオヤジは、マイケルだとわかると、大袈裟に抱きついて頬を合わすアラブ式の挨拶をしたが、後ろに隼介達が5人もいるのに気づくと、びっくりしたような顔をして挨拶もそこそこに店の中に招き入れて戸を閉めた。
 「マイケル、よく来たな。何ヶ月ぶりだ?それに皆もよく来てくれた。・・・おっと、こりゃァ失礼、イスが足らないな。ちょっと待ってくれ。今出すから」
 このクルーズ人のオヤジが喋った言葉は、こんな田舎の小さな村の雑貨屋のオヤジにしては、意外なほど美れいな発音の英語で、隼介だけでなくポールもそれに気づいたらしく、驚いた顔をしてオヤジの顔を見ていたが、この近辺で会う中年以上のアラブ系の人間の喋る英語は、得る覚えの英語のためか癖があるのが普通で、隼介もこれだけ美れいな英語を操れるこのオヤジにすぐに興味を持った。
 しかし、反面、初対面でのっけから質問をぶつけても、どうせプライベートなことを簡単にくちにするようなことはしないだろうし、彼らの置かれている立場を考えると、言動には注意しないとという自制が働き、隼介は好奇心が頭を持ち上げるのを抑え込んだ。
 「大したものは売ってないが、ビールとピーナツくらいはあるから楽しんでいってくれ。さァ、狭いカウンターだが、奥から詰めて座ってくんな」
 オヤジは、奥から持ち出してきた3個の丸イスを詰めて並べて6人の席を作ると、今度はビールを取りに奥に消えた。
 店の中は、長細い6畳ほどの広さで、真ん中に3メーターにも満たない長さの、やけに年季の入った安っぽいカウンターがあり、カウンターの上にも、壁に設えられた大雑把な作りのやはり年季の入った木製の棚にも、日常品から乾物まで色んなものが所狭しと並べてあった。
 隼介は一番奥のイスに座ると、東南アジヤやインドなどで見てきた雑貨屋の雰囲気によく似たこの店を珍しそうに見回していたが、天井に吊るしてあるたった1個の、40ワットもないような明るさの裸電球に目がいくと、その弱々しい薄明かりに目が馴染む前に圧迫感を覚えたのか、俯くと、暫く目頭に手をやって目を閉じていた。

 「さっき裏で冷蔵庫の中を見たが、冷えたビールは1ダースしか入ってない。来ることがわかっていれば準備しておいたんだが、悪いが今夜はそれで勘弁してくれ。勿論冷えてないのでよければ、いるだけ言ってくれ」
 オヤジは、そう言っておいてから、一人ひとりにビールを配りながら栓を抜いていった。
 「おや、これはチャイニーズのお客さんかい?最近は色んな人がこの辺りにも入ってくるようになったが、あんたのような人も、こんなローカルな場所のキブツまで来るようになったか」
 オヤジは、隼介の前でビールの栓を抜くと、薄ら笑いを浮かべて隼介を見たが、隼介の方は黙ってビールを受け取ると、チラッとオヤジの顔を見ただけで、面倒くさそうに下を向いて何も答えなかった。
 「オヤジ、その男はチャイニーズじゃないよ。ジャパニーズだ。間違えないでやってくれ。名前はシュン・・・。シュン・・・、何だっけな?」
 隼介がしたを向いたまま一言も喋らないものだから、隼介とは反対の入り口側に座ったマイケルが、気を利かせたつもりかオヤジにそう説明した。
 チェッ、マイケルの奴何も言わなくてもいいんだよ。勝手に好きなことを想像をさせておけばそれで済むのに。やれやれ、これでまたつまらない話に付き合わされるのか・・・― 2ヶ月経って、キブツ内でも隼介を珍しがる者もいなくなり、やっと他人の目を意識する必要がなくなっていた隼介は、どう思われようとそのまま無視されたい気分だったが、仕方なしに顔を上げると、マイケルに向かって「シュンスケ、ヒラヤマだよ・・・」と、顔も見ずに大きな声で言った。
 「何?ジャパニーズだって・・・。そいつァ・・・」
 オヤジは、続けて何か言いたげだったが、隼介の顔を見ると、隼介があまり乗り気な顔をしていないので、仕方なしに隼介の前に立ったまま、暫く珍しそうな顔をして隼介の方を窺った。
 しかし、そうやって前に立たれたまま見られる気分というのは決して良いものではなく、隼介は徐々に煩わしさに耐え切れなくなったようで、結局諦めたようにオヤジを上目使いに見て目が合うと、自分から渋々だが名乗った。
 「俺はシュンスケ。間違いなくジャパニーズだよ・・・。愛想が悪くてわるいが、こんなとこに来てジャパニーズって言うと、いつも皆に珍しがられてしまって、返ってこっちがナーバスになってしまってね。そんな訳だから、気を悪くしないでもらえるかな・・・」
 「こいつは驚いた。このジャパニーズはまた偉く達者な英語まで喋るぞ。まさか俺は、現実にジャパニーズとこんなとこで話せるとは思ってもみなかった。白人の連中は、ずっと以前からそこいら中にいるが、ジャパニーズなんてテレビの中でしか見たことがなかったからな。・・・へェー、そうかい。まァ、よろしくな」
 オヤジはそう言って隼介に握手を求めると、それから一段と機嫌が良くなり、「ちょっと待て」と言うと、瓶に入ったピーナツの袋をあるだけ取り出し、「サービスだ」と言って、皆に配った。

 「この国にも、日本の物は沢山入ってきているからな、日本がどれだけ凄い国かはよく知ってるよ。自動車も電気製品もみんな凄いものばかりだ。・・・まァ、ちょっと玉に瑕と言ったら、トヨタやニッサンがアラブの国に入っちまてるので、この国でトヨタが買えないってことはあるが・・・。でも、勿論他が悪いって意味じゃない。・・・そうだな、俺もその内チャンスがあったら、トーキョーだろ、キョートだろ。・・・何だァ、あとは・・・?そうそうヒロシマかァ。是非行ってみたいもんだよなァ」
 オヤジはそう言って、アゴの髭をニタつきながら触りまわした。
 「オヤジ。シュンは、そのヒロシマの出身だってさ」
 それまで珍しく黙って座っていたスティーブンが、横から口を挟んでそう言った。
 「えッ・・・、そうかい。そいつはまた大変なとこに家族がいるんだなァ。日本人は、よくあんな大きな国と戦ったもんだって、俺達はずっと感心してんだ。それにカミカゼなんて言葉は、俺達アラブの男は皆知ってる。・・・で、もうあれかい、ヒロシマは何の問題もないのか?」
 「ハハハ・・・。オヤジ、そんな無教養な話をしてるとシュンに笑われるぞ。この男は以外に皮肉を言う男だからな。それに、ヒロシマは今は近代的な平和都市で、反核のシンボルになってる街だって知らないのか?」
 スティーブンは立ち上がって、自信たっぷりな態度でオヤジを嗜めたものだから、それを見た周りの連中が、スティーブンをどっと囃し立てた。
 「おっと、そうだったな。そういうことは一応俺もテレビで見て知っている。シュン、ということはあれだァ・・・。あんたも、何て言うか、ヒロシマを背負った平和論者ってことか?」
 隼介は、「ヒロシマを背負った」という言い方の上に、「平和論者」とまで言われて、一瞬面食らった。
 隼介は、日本を出るまでヒロシマデで暮らしてきたが、両親は戦後ヒロシマに県外から仕事のために転入していて、誰も家族で原爆の被害を被った者はいないし、戦争が終わって10年以上経って生まれた隼介には、戦争や平和や原爆に対する思い入れはそれほどなかった。そして、たぶんそれは、ヒロシマに住む戦後生まれの多くの若者に共通したことだと隼介は思っていた。
 「平和論者だって?ハハハ・・・。オヤジさん、そりゃァ話が飛躍し過ぎだよ。確かにヒロシマもナガサキも、原爆を落とされて世界中に有名になったよ。俺も8月6日は、小さい頃から特別な日だって感じてたし、自分が住んでる街が悲惨な経験をしたことで、戦争の醜さや平和の尊さを子供の頃からずっと教えられてきた。ヒロシマから世界に向かって、平和をアピールしているんだって教えられて、それは凄いことをしているんだと、子供の頃はずっと思ってたよ。だけどねェ・・・」
 隼介は、そこで突然「はッ」としたように言葉を切り、気まずそうに頭を掻きながら一緒に来た連中の顔を見ると、「おっと、悪いな。こんな話は場が白ける。今夜は息抜きにキブツを出て来たんだった」と言うなり、「チーズ」と叫んでビールを高く掲げた。それには、今度はオヤジの方が呆気に取られた。
 「そうだそうだ。ヒロシマのことなんかにかほっとけェ。ここは仮にも戦場の近くだぜ。そんなことは忘れて皆飲もうぜ。ここには煙たがるような奴は誰もいないゾー」マイケルがそう叫ぶと、全員が奇声を上げてビールを掲げた。

 「いや、皆。悪いがちょっと、ちょっと待ってくれないか・・・」
 堰を切ったように一挙に場が盛り上がろうとするのを、オヤジは何を思ったのか、両手を大きく広げて止めに入ると、申し訳なさそうな顔をして隼介に言った。
 「シュン、あんたせっかくだから話を途中で投げ出すようなことはしないでくれないか。俺達はこんな田舎で暮らしているだろ。初めて耳にする話は、どんな話だって勉強になるもんなんだよ。以前マイケルに遊びに来ないかって声をかけたのも、そんな理由があったからさ。俺には日本のことなんてさっぱりわからんし、それにあんたは、この国にまっすぐ来たわけじゃなくて、いろいろ経験してきたんだろ?あんたの英語を聞いてれば、大体の想像はつくってェもんだ。あんたのような人は、地球のほんの片隅でしか生きられない俺からすれば、俺の数十倍。いや数百倍人生を有意義に使っている人だと思う。・・・こんなところに居てな、何もわからないまま生きている俺のような人間が、折角あんたのような人間と出会えたんだ。こんなチャンスを逃すようじゃァ、俺は子供達にこれから何も教えられない人間になっちまう。なァ、だからお願いだ。こんな、女とノイジーな音楽にしか興味がない連中はほっといて、気にせずに続けて話してくれないか?」
 隼介だけでなく、全員が意外な顔をしてオヤジの顔を見た。
 このオヤジは、いったいこれまでどんな人生を送ってきた人だろう。何者だ?― と、隼介は咄嗟に思った。
 ゴラン高原に住むドルーズ人やチェルケスト人は、ある日突然ゴラン高原に線引きがされたことにより、家族や親戚が一方的にシリアとイスラエル両国に引き裂かれた経験を持ち、未だに家族や親戚と自由に交流も交信もできない立場にある。それに、イスラエル側に残った彼らには兵役義務も課せられ、もと味方だった国に銃を向ける立場に立たされているが、イスラエルが忠誠心を見るために取っているやり方には、一種の差別と思えるものもあるようだった。
 そんな経験があるからだろうか、隼介がこれまで会ったゴラン高原に住むシリア人達は、人を遠ざけるように誰も一様に無口で、どこか憂いのある眼差を感じるのだが、それに比べるとこの男は、考え方も前向きな上に社交的で、何よりも暗さを微塵も感じなかった。世界中には、思わぬところに思わぬ凄い人物がいたりして、隼介も驚かされたことが何度かあったが、美れいな英語を喋るこの男にも、何か特別な雰囲気があり、好奇心の強い隼介には魅力的に思える人物だったが、場所柄を考えると下手なことを聞けないのも事実だった。
 「オヤジさん・・・。世界中に向かって平和をアピールしているヒロシマは、これまであんたらに何かしてくれたことがあるかい?」
 オヤジは、黙って首を横に振った。
 「・・・こうして旅を続けているとね、否応なしにいろんな国で醜い現実を沢山目の当たりにするんだ。例えば知ってるかい?インドという国にはカーストという身分制度があって、乞食というカーストの者は、末代まで永遠に乞食としてしか生きられない運命にあるんだ。だから、少しでも乞いをよくするために、親は生まれてきた子供の手足を切ったり、目をくり抜いたりするんだ。それからね、アフリカの飢えに苦しむ貧しい人達のことは、今は皆知ってると思うけれど、ひもじい思いをしている者はそれだけじゃなかった。あのヨーロッパでかっぱらいをして食い繋ぐジプシーの子供達にしても、社会主義や共産主義の国で行き場を失ってひもじい思いをしてる子供達にしても、大人の勝手なエゴが原因で生まれてるじゃないか。そんな子供達は世界中にごまんといたよ。そんな現実を自分の目で見てしまったら、簡単に理想を並べるだけの平和論なんて、今は言えない。・・・今のヒロシマは恵まれているし平和だよ。だけど、世界から見て、本当に現実からかけ離れたとこにないか?それが心配だね」
 隼介と同じように旅を続けて来た隣に座るポールが、隼介の肩をポンと叩いた。

 「・・・それに、戦争なんて人間のエゴと欲の象徴だよね。・・・じゃァ、俺達ヒロシマの人間は、そんなものなんて持ち合わせない崇高な人間の集まりか?っていったら、そんなことは決してない。ヒロシマに住んでる人間だって同じだよ。街中でケンカやいがみ合いなんてしょっちゅうしてるし、欲の皮のつっぱた奴もうようよいる。ヒロシマにもあるそんなささいな現実と、戦争を生む根底にあるものは一緒だと俺は思うんだ。・・・残念ながらヒロシマからは、未だにインドで会ったマザー・テレサのような人物が出てきていない。何かそんなことが、ヒロシマの現実を物語っているように俺には思えるんだけどな・・・」
 「シュン・・・。あんたはクールだな。自分の故郷をそこまで醒めた目でみれるんだからな。・・・あァ、それに、確かにそうだよ。現実はそれほど甘いもんじゃない。俺達は20年近く実際にそれを嫌というほど味わってきた。あんたはこうしてここまで足を運んでくれたんだから、あんたのお仲間とは比べ物にならんほど、この現実がよくわかってくれるだろうよ。・・・シュン。だけどな、俺達はヒロシマに期待なんてしちゃァいないよ。俺達の置かれた状況に対して、ヒロシマが平和を叫んでるんだったら、そりゃァ何かすべきかもしれない。だけど、今のヒロシマは俺達からはまったくみえないとこにあるんだ。あんたが俺の前に現れなかったら、俺はヒロシマなんて意識することもなかっただろうし、ヒロシマのしていることにまったく興味もなかったんだからな」
 オヤジはそう言ってから、やっと少しは満足できたのか、タバコを取り出して火を付けると旨そうに吸った。
 「オヤジさん。俺達は寂しい生き物だよな・・・。いろんなことを経験すればするほど、知識を積めば積むほど、失望や幻滅も大きくなるんだから・・・。だったらいっそのこと、人里離れた場所で無知に暮らす方が、よほど楽な生き方なのかもしれないな・・・」
 隼介がしみじみそう言うと、オヤジは何も答えず、ただ隼介の顔をちらっと見て微笑んだ。
 6人はそれから2時間近く、隼介、ポール、マイケルの3人が行ったことのある、世界中の若者にすっかり人気になったタイの島の話で盛り上がった。
 イギリス人はパブに行っても、パイン・グラス一杯のビールをチョビチョビ飲みながら話を長々と続けるが、この夜も結局一人が2本以上のビールを頼むことはなく、誰も酔っ払うようなことはなかった。こんな場所で酔っ払うことの無様さを、それぞれがわかっているからそれで抑えたとも言えた。。
 勿論オヤジもそれから終始上機嫌で、6人がしている話を大袈裟なアクションを交えたりして楽しそうに聞いていたが、帰る間際になると隼介を捕まえて、「エル・ロームを離れる前に必ずもう一度来い」と何度も念を押したのだった。

 それから雑貨屋の壁に掛けてある古ぼけた時計が10時を知らせると、隼介達は申し合わせたように席を立った。
 隼介達には、ブクァタ村からエル・ロームまでの夜道が、決して安全なものではないという自覚があった。
 「おい、皆。今夜は少し暗いから、出来るだけ早くエル・ロームに帰ろうぜ。どうも最近、やばい話があったようだからな」
 ブクァタ村を出て幹線道路に入り、村の明かりがまったく届かない場所まで来ると、まだ欠けの大きい三日月を見上げながらマイケルがそう言った。
 「えッ、どうしてだい・・・?心配しなくても大丈夫だよ。俺達はブクァタ村を出て来たんだぞ。もうそこの丘の上の監視所から、ナイト・スコープを使って確り監視されてるよ。心配しなくても、何かあったらすぐに奴らが飛んでくるだろ」
 スティーブンはそう言うと、すぐ東側にある丘の上の監視所に向かって、大袈裟に手を振って見せた。
 「お前ら知らないのか?4、5日前に、すぐ南だって言ってたから、たぶん14、5キロ南のハバシャンの近くだと思うけど、夜間シリアからテロリストが侵入して来て、イスラエル兵に射殺されてんだぞ。こんな所をこんな時間にぶらぶら歩いてて、もしも何かがあっても文句は言えないからな」
 隼介もそのニュースのことはまったく知らなかった。ハバシャンの近くの非武装地帯は、南北に長い範囲で特に狭くなっていて、エル・ロームの近辺では最もシリアに近い場所だった。
 「おいおい、そりゃァマジかよ。そういうことがあったんだったら、早く帰ることにこしたことはないな」
 お調子者のスティーブンは、すぐに態度を変えると、「テリー、行くぞ」と叫んで走り出した。
 「やれやれ、あいつらには本当に参るよな。もうちょっと確りしたブリティッシュが一人欲しいもんだ」
 マイケルは二人を見て溜息をついていたが、すでに二人を追うように残りの3人も駆け出してしまったので、慌てたように後を追った。
 6人は、足元がまったくわからない暗闇の道を、1キロほど黙ってひたすら走った。若い彼らには、その距離は大した距離ではなかった。
 そして、休むことなく走り続けた6人は、エル・ロームのすぐ側まで帰り着くと、安心したように歩調を緩めた。
 隼介は、ブクァタ村とは比べ物にならないくらいに明るいエル・ロームの敷地が見渡せるようになると、何を思ったのか急に立ち止まり、エル・ロームを眺めていたが、暫くすると今度はゆっくり振り返り、ブクァタ村の方向にひとつだけ薄くぼんやり小さく見える光を見つめた。
 たったこれだけの距離なのに、あそことここはまったく違う世界だったな― 隼介はそう思っていた。
 それぞれの場所には、それぞれの立場やそれぞれの生き様があり、それは、隼介の力ではどうしようもないくらい大きな力で操られている。
 しかし、その何れもが、決して自分の居場所にはそぐわない― と、隼介は改めて思うのだった。
  

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